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セプル・サルコ事件 II: 女達の苦難

1982年9月、軍は8月25日のオペレーションにより夫を失った女性らのリストを作成し、一軒一軒訪ね歩いた。軍人らはこの女性たちを「好きにしてよい」対象と見なしたのであった。兵士らは彼女達の家を焼き払い、基地の側に住むことを強要した。それのみならず、兵士らの食事の準備や衣類の洗濯、セックスを命じられた。1度につき、5~10人の相手をさせられたという。

女性達は妊娠しないようにと注射され、何人もの相手をさせられたために出血し、気を失うこともあったという。それでも治療を受けられるはずもなく、身近にある薬草で我慢せざるをえなかった。

軍人らの手を逃れて山に隠れた女性らもいた。しかしそこでは空腹と寒さのために、子供たちが死んでいった。

「軍事サービス」という名の奴隷化は6ヶ月間続いた。フランシスコ・レイエス隊長が基地に囚われていた人物に襲われて負傷し、手当のために基地を離れることがなければ、もっと続いたに違いない。レイエスの後任のオバイエは、女性達を解放した。もっとも、その後和平調印に至るまで、女性達は毎日25ポンドの(10kg強)トルティーヤを提供しなければならなかったのではあるが。

この女性達は和平調印後のいくつもの団体による聞き取り調査にも、口を閉ざして話そうとしなかった。

セプル・サルコ事件 I: 男達の失踪

1982年7月、アルタ・ベラパス県パンソスとイサバル県エル・エストールにまたがるセプル・サルコ農場内に軍の駐留地ができた。エステルメル・フランシスコ・レイエス・ヒロン少尉率いる兵士50人がここにやって来た。駐留地はその地方の農場主らの要請によるものであったが、その中にはサン・ミゲル農場を所有するミヤ家、チャビランド農場を所有するフアン・マエグリ、ティナハス農場を所有するパンソス元市長フラビオ・モンソンといった名前などが含まれる。

また、当時、パンソスにはカンチェと呼ばれる軍務委員がいた。カンチェことエリベルト・バルデス・アシフはかつてはパンソスの憲兵であったが、1982年4月に軍務委員となり、国軍に協力するようになった。

8月25日はパンソスの守護聖人リマの聖ロサの祝日であった。この日複数の駐留地の兵士により編成された部隊がゲリラの協力者という容疑で18人を逮捕した。この部隊を案内していたのがパンソスに詳しいバルデス・アシフであった。18人は逮捕された後、セプル・サルコの駐留地に連行されたと見られるものの、その後は行方不明となったままである。

しかしこの18人はINTA(Instituto Nacional de Transformación Agraria: 国立農業改良機関)に土地の権利手続きを行おうとしていた農民であり、農場主ら大土地所有者から自分達の土地を守ろうとしていた農民組織に属していたことから、この逮捕は農場主らの意向を汲んだものであったのではないかという疑惑が持たれている。

残された妻たちは夫の行方を捜してあちらこちらの駐留地を訪ね歩いたが、足取りは掴めなかった。

内戦終結後、ティナハス農場からは何十体もの遺体が発掘されている。これらの遺体の身元は確認されているわけではないが、セプル・サルコ事件の裁判の時に証拠物件として提出されている。

セプル・サルコ事件(序)

先月、ハイリスク法廷で内戦時に女性らを奴隷としていたとされる軍人と軍属の2人が有罪判決を受けました。

派手な虐殺事件でもなければ、被告にビッグネームがいるわけでもありません。また被害者らが2011年まで沈黙を守っていたため、内戦終結後に作られた報告書にも出ているわけではありません。

そしてこの事件は「内戦」「軍」というキーワードばかりが表に出ているものの、実は「土地紛争」に由来するものであったことも指摘されています。

セプル・サルコ(Sepur Zarco)はイサバル県エル・エストールとアルタ・ベラパス県パンソスの両方にまたがる農場にある小さな集落でした。パンソスと言えば、内戦時に虐殺事件が起こっていますが、これもまた土地問題が理由の一つだったとされています。

30年間沈黙を守ってきた女性らが意を決して証言を行い、2人が有罪となった。しかし、彼女たちが払った犠牲はあまりにも大きいし、多くの軍人が係わったとされるこの事件で裁かれたのがたった2人ちうのもそれでいいのだろうかと思わないわけではありません。

ですが、この女性達が過去を清算して前進していけるために必要な裁判だったのではないかとも思います。

これからしばらくこの事件について書いてみたいと思います。