Monthly Archives: March 2013

1981年CIDH報告書(9. チャフル)

チャフルはイシル族の人達が多く住むキチェー県の奥まったところに位置した町です。キチェー県北部のイシュカン地方と県都などのある南部を結ぶ場所にあり、ゲリラにとっても戦略的に重要な意味を持つ場所であったが故、内戦の激戦地となってしまった地域でもあります。


c) チャフルの虐殺事件

1979年12月6日、ウスパンタンの農民9人が国軍によって拉致された。この内2人はその後逃れることができた。

軍は農民7人をヘリコプターに乗せてチャフルまで連れて行った。チャフルに着くと、全員にカーキ色の服を着せ、壊れたショットガンを渡し、農民らだけでチャフルの市街地まで街道を歩かせた。兵士らは途中で一行を待ち伏せ、チャフルの基地を襲おうとしていたゲリラだと言って全員を殺害した。7人は街道を通る人の目に晒された。軍はチャフル市長に遺体を埋めるように指示し、7人はチャフルの墓地に掘られた2つの穴に埋葬されたが、遺体の1つはガソリンをかけて焼かれていた。

虐殺の20日後、軍は追跡、コントロール、大量の兵士の駐留、家宅捜索、農民の拉致といった方法でチャフルの住民に対する締め付けを強化した。

被害者はガスパル・チャベス・パチェコ、ペドロ・チャベス・カバ、アントニオ・チャベス・カバ、ガスパル・ライネス、サルバドル・ボプ、ルカ・カバ、トマス・カバである。


ウスパンタンはノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュの出身地。イシル地方に隣接する町でもあります。リゴベルタさんの弟さんも79年にウスパンタンで捕らえられ、拷問を受けた後、ゲリラとしてチャフルで処刑されたのだと「私の名はリゴベルタ・メンチュウ」に書かれています。この時期この地方がターゲットとなったのは、CUC(農民統一委員会)という農民グループがこの地で組織されたことと関係があるようで、この事件を期にこの地域への弾圧は激しさを増して言ったのだそうです。

なお、上記の虐殺事件はCEHの報告書によると9月に拉致され12月に処刑されたとなっていますが、CIDHの報告書では12月と書かれているのでそのままにしてあります。

おがくずアート

聖木曜日の超長アルフォンブラ見物してきた時の写真をいくつか。

DSCN1491

聖フランシスコ教会の前には当然のごとく聖フランシスコが描かれたアルフォンブラが。顔と手の部分は厚紙なんだけれど、風にあおられて左手が引っ繰り返っているのがちょっと残念。小鳥に説教した(説教ってお説教の説教じゃなくて福音のことを話す方)と言われる聖人らしく、小鳥も飛んでおります。現在の教皇の名前フランシスコもこの聖フランシスコに由来。

 

DSCN1504

新教皇を描いたデザインはいくつかあったんだけれど、個人的に気に入ったのはこの小さいヤツ。おもちゃのメガネを使ったのかな?アクセサリーでばっちり顔の表情が出てるよね。

 

DSCN1503

フラメンコダンサーと言っても通用するような気がするけれど、マリア様。水彩画っぽいデザインが素敵。こういう絵も作れるものなんだね。ガーベラの花もいいアクセントになってるわー。

 

DSCN1492

こちらは伝統的なアルフォンブラ。花などがモチーフになっていて素敵。向こう側に使った型が見えてるけれど、ベニヤ板かな。ベニヤ板みたいに厚みのある型を使うと、おがくずも厚く詰め込めるので出来上がりがゴージャス。シンプルなアルフォンブラが多かった中で、これは目立ってたな。

 

DSCN1511

こちらも花柄アルフォンブラ。色合いも素敵で、こんな絨毯我が家に欲しいわー。あ、自分でおがくず敷き詰めればいいのか…。

 

DSCN1509

アルフォンブラの上に飾られていたコロソの船。コロソって椰子のことで(コヒューン・パームとか言う椰子らしい)、船の形をしているのが鞘、その中に白くて細長い花がたくさん詰まっています。アルフォンブラの上にも直置きされてるヤツ。ちょうど3月くらいに花がつくらしく、これがグアテマラ的には「セマナ・サンタの香り」。ちょっとお香にも似た独特の香りなんだよね。卵を紫色に塗ってブドウにしているのも素敵。

 

DSCN1495

私の一番のお気に入りはこれ。最後の晩餐のシーンだけれど、地面のコンクリートやチョークをうまく使って絵にしていて、すごい発想、見事な仕上がり。おがくずでこんなんできるんだーと感心しちゃいました。

 

そんなアルフォンブラの製作風景なんかはこちらで見られます。

さて、これで本当に教皇訪問が実現したら、空港から行く先々にアルフォンブラが敷き詰められることになるんだろうなー。

Habemus Papam

聖木曜日の昨日、パセオ・デ・セクスタに作られた長~いアルフォンブラを見に行ってきました。場所は1区の6アベニーダ、中央公園のある5カイエから18カイエまでの距離約1250m。いやはやここはアンティグアか!と言ったら言い過ぎだけれど、すごい人出ですごい陽射し。びみょーに日焼けしてしまった…。

このアルフォンブラ作り、去年に続いて今年が2回目ではないかな。今年のテーマはHabemus Papam(ハベムス・パパン)。ラテン語のこのフレーズは新教皇が決まった時にバチカンが告げる第一声で、We have a Popeという意味だとか。ラテンアメリカ出身の新教皇に是非来てもらおうというアピールですな。別にスペイン語でもいいじゃんかという気もするけれど…。

DSCN1484

これは18カイエ側の端っこ。この辺りは人の数もさほどではなかったんだけれどね。風が強かったので、アルフォンブラ作った後、水をまいておがくずが飛ばないようにしてるところ多かったです。そんなわけで濡れております、アルフォンブラ。

DSCN1490

ここはまだアルフォンブラ製作中。なぜか交通警察の人達が大勢で他の人が中に入らないようにロープ持ってた。緑のところにおぼろげに浮かび上がっているのはグアテマラシティの紋章。まだ出来上がっていないけれど。

DSCN1489

こちらもまだ製作中。この日は朝6時頃からアルフォンブラ作りが始まったんだそうで、私達が行った正午過ぎはほぼ出来上がっていて、仕上げをやっているのがチラホラ。ダンボールなどで型を作っておがくずを詰め込んでできあがり。ここはガーベラの花を飾りにつかって、茎の部分をアルフォンブラの端っこに並べてたかな。ガーベラのアクセントが素敵。

DSCN1513

こちらは一般参加の手型アルフォンブラ。最初は手におがくずつけてペタリ、ってやってたみたいだけれど、やがて型抜きになったっぽい。たくさんの手型があって、ちょっとハリウッドみたい~(笑)。その代わり、子供達皆自分の手型つけたがって列になってた。

DSCN1494

途中で市長さん発見。アルバロ・アルスー市長もアルフォンブラ見に来ていたのねー。中央の紺と黄緑のジャンパー着た人です。ちょうど市の紋章の前にいるところがミソ。いろんな人と肩を組んで写真撮って、人気者。

DSCN1506

ここが終点中央公園。ホントにここまでずーーーーーーーっと繋がってた。上空をヘリコプターが何度か往復してたけれど、あれってギネスブックに送るためのビデオとか写真とか撮っていたのかも。もちろんテレビカメラも何台かあったし。

右側の紫色の着衣の人はカンデラリア教会のククルーチョ。ククルーチョってプロセシォンで御輿を担ぐ人だけど、カンデラリアは紫の衣装に白い帯とよだれかけ?、頭の上には角がついているのが目印。教会によって違うんだけれど、毎年どれがどこだったかわからなくなる…。

ちょっと長くなりそうなので、続きはまた明日に。

1981年CIDH報告書(8. オロパ)

続けてCIDHの報告書から。オロパはホンジュラス国境に近い山間の市です。グアテマラの場合、地方自治体はすべて「市(municipio)」と呼ばれ、この市の中に村や集落が存在することになります。そんな人里離れた村で起きていた事件。


b) オロパの事件

CIDHが受け取った告発は次の通り。

チキムラ県オロパ市エル・ロデオ、アマティーヨ、アグア・ブランカ、エル・カマロテ、トゥノコ、カリサリート及びその他の村の農民らに対する虐待について、次の通り告発を行う。

1977年以降、エスキプーラス市モンテーロスのPMA(憲兵隊)は、同地のカテキスタ(注:宗教教育を担当する人)、女性15人、子供40人を含む100人以上を殺害している。

この状況は、去る9月に同地に土地を所有する農場主セサル・レムスとドミンゴ・インテリアーノに命じられたPMAが農民8人を拉致して以降悪化している。この8人は後に川で溺れたり、首吊り死体となって見つかっている。9月26日には農民15人がPMAに拉致され、後に殺された。翌27日にはアマティーヨ地区の地区長であるフランシスコ・ガルシアが事件について届け出、遺体の身元を確認するためにオロパの裁判所に向った。しかしガルシアはその夜拉致・殺害された。被害者の遺族や友人らは、PMAを恐れていたので、被害者の遺体を埋葬することができなかった。

上記に加え、PMAの残虐な犯罪行為についても告発する。PMAは村にやってくると子供たちを捕まえて背骨を折り、女性を絞殺し、男性を川に投げ込んで溺れさせて銃殺した。それから住居や作物を焼き払ったのである。

数ヶ月前にはパンソスの虐殺事件について告発を行ったばかりであるが、少数の土地所有者の止まるところを知らない欲と、それに共謀する当局のために、オロパの住民らに同じことが繰り返されているのを見て激しい怒りを感じる。セサル・レムスとドミンゴ・インテリアーノは農民らの土地を奪おうとしている。農民らの糧である作物を台無しにするために畑の柵を取り払い家畜を侵入させている。そうしてコーヒーやフリホールの収穫を台無しにした上で、土地を奪おうとしているのである。

このような嫌がらせのため、エル・サルサル、ピエドラ・アモラール、エル・アマティーヨといった村は事実上放棄されてしまった。土地を出て行かざるを得なくなったのである。地主らは、農民自らが絶望して土地を放棄するように仕向け、違法に自らの土地を拡大しようとしているのである。

CIDHはこの告発に対して手続きを開始した。

グアテマラ政府からは1979年3月1日に次のような書簡での回答があった。

CIDHに告発があった件について、事実関係は次の通り。エスキプーラス市カルボネラ村、オロパ市及びカモタン市のフィピリンゴ、サルサル、モンテーロス、サン・ホセ・ラス・ラグリマス、エル・ロデイート、トゥンコ、サン・アントニオ・エル・カリサルの各村では1977年以上、暴行、拉致誘拐、殺人、放火、窃盗といった、あらゆる種類の犯罪を働く犯罪グループの被害を被っている。犯罪者集団を恐れて住民らは住居を捨てて山中に逃れることを選び、中にはホンジュラスに向った者もいる。最終的には、住民から国軍に対して支援要請があり、国軍がこれを実行することによって、最終的に自宅へと帰還している。

この状況は1978年12月6日付エル・グラフィコ紙、インパクト紙、ディアリオ・デ・セントロアメリカ紙及び12月7日付でラ・オーラ紙に掲載された例を挙げてみる。紙面には事実関係とグアテマラ国軍の関与が記述されているが、これは脅迫の被害者であった住民ら自らが国軍の派遣を要請したものである。農民らは犯罪を防いでくれる軍当局に感謝している。


PMAはPolicía Militar Amblanteの略で、直訳すると巡回憲兵みたいな感じではないかと。1965年に創設され、軍からも警察からも独立した独自の組織ではあったものの、実際には軍、特に情報部の配下として活動することが多かったとされています。

公共施設や設備、更にはプライベートセクターの警護を担当していたのですが、ゲリラと見なした人物を逮捕・尋問する権利を有していたこともあって、内戦の激化と共にPMAが関わる人権侵害事件もどんどん増えていったのでありました。

CIDHに対してなされた告発がPMAを訴えているものであるのに対し、政府の回答はPMAについて一言もメンションしていない。告発は事実であり、政府にはPMAをどうこうする気はない・・・ということの証左なのでしょうか。

1981年CIDH報告書(7. パンソス)

報告書は続いて先住民らの虐殺事件等について、具体例を挙げていきます。ここは要約せずにそのまま翻訳していこうかと。


D. 先住民と農民の大量殺戮

a) パンソスの死者

パンソスはグアテマラ北部、アルタ・ベラパス県のポロチク地方にある小さな共同体である。住民はケクチ族であるが、少しずつ彼らの土地を奪われてきた経緯がある。

CIDHが受けた報告書や証言によると、1978年5月29日、パンソス各地の農民約700名が中央広場に集まった。パンソス市から首都から送られてきたメッセージを伝えるので来るようにとの連絡があったからである。農民らは、正当な土地の配分と土地登記、更に農場主や国軍兵士らによる強制立退き執行の停止などを求めて請願書を送っており、それに対する回答が来たのだと思っていた。

農民らが広場に集まると、武装した国軍兵士や何人もの農場主らが発砲し始めた。農民らは農作業に使うマチェテや棍棒を所持しているのみで、武装していなかった。男性、女性、子供、老人らが重傷を負って次々と倒れていった。

この時の死者は130人以上に上る。負傷者の数は明らかになっていない。

生存者らは、殺されることを恐れて手当を拒み、逃げようとしてポロチク川に飛び込んだが、流れに飲み込まれて何人もが亡くなった。

この地域全体が軍事オペレーションの対象となっていたため、虐殺の後、国軍に許可された救急車が到着するまで、負傷者らは地面に横たわったまま数時間待たなければならなかった。死者は何時間もその場に放置され、最終的には2台の公用トラックに詰まれて、あらかじめ用意されていた地面に掘られた溝に埋められた。

農民らがいずれも武装していなかったこと、首都から来たメッセージを伝えるという理由で集められたことについて、生存者の証言は一致している。700人以上の農民らは、国軍兵士からいきなり一斉掃射を受け、虐殺されたのである。

セマナ・サンタ

昨日の枝の主日からその次の日曜日の復活の主日までの一週間はセマナ・サンタ(イースターウィーク)。セマナ・サンタと言えば、バケーション。なんつったってグアテマラのセマナ・サンタって夏休みって意味ですからね。この炎天下、重たい御輿を担いでえっちらおっちら苦行に励む人がいるかと思うと、海に繰り出して思いっきり夏を満喫する人もいるというギャップがすごい。

そんなわけで今朝は道路もがら~んとしていて、普段の喧騒とは雲泥の差。あ、つまり私は仕事をしていたわけですが、グアテマラのざっと1/3くらいの人はもうお休みなんじゃないかなぁ。グアテマラの正規の祝日は水曜日の午後から金曜日までの2日半で、それ以外はワークデイのはずなんだけれど。

小僧の学校は今日から来週の月曜日までが休暇だけれど、多くの学校は先週の金曜日から既に休暇。小僧のクラスでも、1/3は金曜日には姿を見せず、バケーションに行ってしまっていたのだとか。ま、日本ほど祝日も有給休暇も多いわけじゃないし、それくらいは許容範囲だよね。許容範囲だとは思うけれど、やっぱり私には一生実行できないだろうな・・・。恐るべし、日本人のDNA。

ま、私の場合はこの時期本業が忙しいので、こんなブログを書いている暇もないくらい・・・と言ってみたいところだけれど、世間の大半がお休みなので、実はやっぱりあんまり仕事も進まないという。基本的には先週で3月は終わっていたんだと今頃気づくセマナ・サンタ。

とりあえずは粛々と仕事を終わらせて、木曜日からは私もバケーションの仲間入り。さて、何をしようかな~。

リカルド・アルホナ狂想曲

日本では多分知る人ぞ知る的存在なんだけれど、グアテマラを代表するビッグネームのリカルド・アルホナが、ワールドツアーの〆コンサートを祖国で、しかも無料でやる!

っていう話になったら、普段なら「チケット高すぎ~」と諦めちゃう人だって目の色が変わるわな、てか日本人の私もおすそ分けに預かろうかと一瞬思ったりもしたんだけれど。コンサートのチケットそのものは「ネットで掲載されるクイズに答える」「ペプシ(ワールドツアーのスポンサー)を買ってアタリを当てる」「バントラブ(今回のコンサートのスポンサー)にQ500預金する」とう3通りの方法で入手可だったので、一番確実な銀行預金に長蛇の列が出来たのは一ヶ月前くらいのことでした。

今日行われたコンサートに集まった人の数は、少な目で6万人、多目で8万人、間をとって7万人位だったらしい。すっごく盛り上がったんだろうなー。やっぱり私も銀行預金してくれば良かった・・・と今更ながらに後悔してみたり。

会場となったシウダー・カヤラは駐車場はかなり大きいんだけれど、これだけの数にはさすがに対応しきれない。というわけで、市内各地に駐車場を確保してそこからグアテマラシティが運営するトランスメトロ(ってバス)でピストン輸送、今日の午後は会場付近は通行規制、というのが2,3日前から発表されていて、祖国の誇りアルホナに対するこの力の入れ方はハンパじゃなさすぎ。

祖国の誇りと言えば、大統領は今回アルホナに勲章を授与してるんですよね。グアテマラの勲章はオルデン・デル・ケツァルと言うんだけれど、種類は6つ。その中の最高位の首飾りになっているヤツ、日本風に言ってみるなら鳳緑尾鳥章頸飾?てのが贈られてます。

そんな雲上人になってしまったアルホナですが、プレス・カンファレンスでは最初のコンサートの時の話を披露。

「あれはチキムラでした。バスケの友人が企画してくれて、彼は会場の入り口でやって来る人を待っていました、というか中に入って下さいとお願いしていたんです。私は中で、誰か思い切って入ってくれないかとナーバスになっていました。結局、3人を前にしてコンサートを開きました」。

デビュー当初は苦労して一時は歌手辞めようと思ったこともあったアルホナが、今では7万人を前にしての大コンサートですからねー。

そんなアルホナの数多くの歌の中から、ここにMi País(ミ・パイスー「オレの国」「祖国」「私の国」とかとか)を貼り付けておきます。