Monthly Archives: July 2018

アレハンドロ・マルドナド「証人の中の証人」

今日のタイトルは前大統領アレハンドロ・マルドナドの著作なのですが、読んだわけではありません。

本日、グアテマラシティの書店でこの著作のプレゼンテーションがあったのですが、これにマルドナドがやって来ており、インタビューというか半ば独演会が行われたのでした。

Alejandro Maldonado Aguirre

右側は会場となった書店のオーナー(多分)、左側がマルドナドさん。写した場所がちょっと後ろすぎかも。

アレハンドロ・マルドナド・アギーレについては大統領在任時に簡単にまとめていますが、1936年生まれで82歳、現在は中米議会議員です。著作「証人の中の証人 (Testigo de los Testigos)」は初版2004年(ピエドラ・サンタ社)、改訂新版が2012年(セルビプレンサ社)に出ており、今回のプレゼンテーションで使われていたのは2012年版の方でした。2004年当時は国会議員(ウニオニスタ)、2006年から2015年まで憲法裁判所判事だったということは付け加えておいた方が良いかな。この憲法裁判所判事時代には、エフライン・リオス・モントに対する内戦時の人権侵害容疑でスペインから身柄送致請求があった時、これを拒否するのに重要な役割を担った人でもあります。

マルドナドさん、話し出すとやめられない止まらない。特に若い頃のお話はおもしろいのですが、お陰であっという間に時間が来てしまいました。

覚えている点を書いておきましょう。

ライバルと目されていたマヌエル・コロン・アルゲタについて。マルドナドによると、メメ・コロンは社会民主主義、自分はリベラルな民主主義と、イデオロギーは異なる。1970年の選挙ではメメ・コロンとグアテマラ市長の座を競った。この時はメメ・コロンが当選、マルドナドは次点であったが、テレビのインタビューで落選を認めたため、所属政党からは色々批判されたが、メメ・コロンはこれ以降、マルドナドと親しくなる。コロンは中央政府とは良い関係を築けないでいたが、マルドナドは教育相として政府にいたので、コロンは度々マルドナドの元を訪ねていた。この2人の関係が良好だったために、テレビでの対談が実現したのでした。

なお、この対談は書籍化もされています。

当時はイデオロギーの相違を乗り越えることのできた時代だったのですかねぇ。今ならマルドナドすら左とか言い出す人が出てきそうな勢いのグアテマラですが。

書籍を買ったので、読んだら(いつのことやら)改めて書評書いてみたいと思います。

なお、マルドナド曰く、元大統領フアン・ホセ・アレバロの書作「大統領執務室 (Despacho Presidencial)」は正確な良書なのでオススメとのこと。マルドナドさんの本が読めたら考えよう。だって500ページ以上もあるんだもん。フアン・ホセ・アレバロはマルドナドにとって理想の大統領だったのではないかな。なんてことを想像しながら読んでみたいと思います。

ただし、今別の本を読んでるので、それが終わってから。なんてことを言ってたら、ずーっと読めないままになっちゃうかもしれませんが。

雨季の中休みの中休み

グアテマラの首都圏の雨季は概ね5月から10月くらいとなっていますが、7月には大体2週間前後の雨の降らない時期、カニクラがあります。

カニクラ(canícula)は夏の暑い盛りのことを言うのだそうですから、グアテマラでの使い方は若干間違ってるんじゃね?と思わないでもないですが、can(カン、英語のキャンではないのですよ)、すなわち「犬」という言葉が含まれているのは、おおいぬ座が日の出&日の入りに登場するのがこの時期だから、という意味で考えれば、実は間違っていないのかも?英語でこの時期のことをドッグ・デイズ(Dog Days)と呼ぶのも同じ意味なのだそうです。

今年は7月上旬から雨が少なくなってきていましたが、その後ぱったり降らなくなって2週間ほど。この時期は太陽が出れば暑いです。セマナ・サンタの頃が乾燥してじりじりと暑いのと比較して、この時期は雨が降った後だけに湿度が高い。なのでセマナ・サンタよりカニクラの方が暑いんじゃないかな。

さてそのカニクラ、今年はなんと2回あるそうです。

7月のカニクラはこの週末まで。昨日と今日、首都圏では結構な雨が降っています。さすがに雨が降ったら
カニクラとは言えないよ。

そして8月の頭にまたカニクラがやってくる。こんな2部構成のカニクラって、少なくとも私は記憶していないなぁ。8月と言えば雨が降ったり止んだりでずーっと続いていくのがデフォルトなんですが。これもやっぱり気候変動の影響かしら。心配なのは農作物。グアテマラの農業は結構お天気頼みなので、雨が降らない時期が長くなると当然枯れてしまうという。カニクラがお休みの間に、雨にはきっちり頑張ってもらわないといけません。

今年の雨季は、首都圏は降雨量が少ないように思うのですが、南部の太平洋岸は軒並み平年を上回っているそうです。今後大きな災害がなく、適度に雨が降って太陽が顔を出してくれるといいんですけれどねぇ。

日本のような厳しい暑さはないものの、別の意味でいろいろ厳しいグアテマラなのでありました。

再び水道橋

グアテマラシティの南部に残っている水道橋は、一部は割と綺麗に残っているのですが、その大半は元の面影もないまま穴が開いていたりゴミが捨てられていたり

それでも建設されてから200年以上経っていることを考えれば、保存状態としては悪くはないのかもしれません。

Acueducto de Pinula

この写真はアウロラ空港から市街地へ出る交差点のものですが、この写真の右側は動物園になっており、その動物園とリベラシォン通りの境目、この水道橋がテクンウマン像のところまで続いています。一部は動物園の敷地内、一部は外となっており、動物園の中の方が若干保存状態が良さそうな感じに見えました。

Acueducto

金網が無粋ですが。

このアーチが載っているところ(私が立っているところも含む)が元々のクレブラ・マウンドなのかな?ちょっと小高くなっていて、故に空港やら動物園やらの境目となっています。このアーチの上の部分が実際の水道管として使われていたところ。この水道橋は水道管の断面もアーチ状。

Acueducto

これは別の個所ですが、この管の部分、少し深くなっているのがわかるかと。そして下側は水が漏れないように漆喰が塗られていたようです。経年変化で水漏れしたりすると、レンガ剥がして直したんでしょうかねぇ。

Acueducto

水道管の向こうにある建物は、恐らく、ですが水の中に含まれている土や砂と言った不純物を除去するための沈殿池ではないかしらと思うのですが、どうでしょう。この部分が金網の中なので、よくわからず。ちなみにこの付近、動物園側は駐車場とか広場とかになっていたような。

Acueducto

こうして今もひっそりと水道橋、というか元水道橋は残っています。水がないと単なるベンチのようであったり、プランターにも見えないこともないような。

昔のように水を流したりできないのかなぁ〜と思わないではないですが、一部欠落している部分もありますし、何よりもこの水道橋の水源だったところは、現在グアテマラシティの水道局が水源としているので無理でしょうねぇ。

水道橋跡に水とそうめんを流して、壮大な流しそうめんやったら楽しそうだよなぁと思うんだけれどなぁ。

シエスタ

うさぎは普通頭を落として寝ないのですが、この時は熟睡でした。

Siesta

起こさないように携帯でそーっと撮ったので、あまり綺麗な画像ではありませんが。

普通なら気配で目をさますところですが、よっぽど眠かったようで、この時は写真を撮っても起きなかったのでした。

なんとまぁ無用心に眠っていること。

このテーブルの下はお気に入りの場所の一つで、テーブルに貼ってある「201-A」はモカの家の番号。我が家が201号室なので、その中にあるモカ家は201-Aなのですよ。お手紙書く時は宛先にそう書いてね。いまだに郵便局やってませんが、グアテマラ。

シエスタとタイトルしてますが、これは朝の、私の出勤前の時間。普段ならごはんを食べて庭に出て風に当たっている時間。いつもとは違うこんな表情見ちゃうと、またたまらなく可愛いくて。単なる親バカなんですが。

私はサンディニスタだった

記者兼映像プロデューサーのアナ・カルピオはグアテマラの内戦が激化していた1980年、家族とともにニカラグアに移り住みました。当時のニカラグアはサンディニスタ革命が成功してしばらく経った頃で、アナもサンディニスタの青年部に加わり、サンディニスタ政権を支えたのでした。

革命後の証人でもあるアナが現在のニカラグアを憂慮してWebメディアのノマダに「39年前、私はサンディニスタだった」という文を寄稿していますので、ここに紹介したいと思います。なお、サンディニスタは「サンディーノ主義者」のこと。前世紀前半、ニカラグア人でアメリカへの抵抗運動を率いたものの、1934年にアナスタシオ・ソモサにより殺害されたアウグスト・セサル・サンディーノの名に因みます。

掲載はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC BY-SA 4.01によります。


 

39年前、私はサンディニスタだった

1980年7月19日、私は初めてデモ集会に参加した。当時、私は13歳でニカラグアに住んでいた。

その日は、ラテンアメリカでの最後の武闘革命の成功から1年であった。マナグアの革命広場に押し寄せた何千人もの群衆の中で、私は他の人と同様、赤と黒の旗の一部であった。家族とともにグアテマラから追放され、「自由なニカラグア」で一ヶ月を過ごした頃であった。他の国へ行くこともできたが、両親はこの地域の正当な社会モデルとなると考えられていた国の建設に立ち会う機会を逃すまいとしたのであった。5年間ニカラグアに住み、そこで高校を卒業した。

最初の頃の思い出は、マナグアの逃れようのない常夏の暑さである。この町には皆が集まれるようなところがなかった。1974年の地震の後、再建されないままだった。私の思春期の最初の頃の記憶をより乾いたものにしているのは、若者の姿のない、埃にまみれた石畳の道である。

しかしこれは間もなく変わる。若者らは帰ってくる、と誰かが言っていた。サンディニスタ革命政権が若者らに依頼した最初の大きな任務が「識字教育十字軍」のためにである。教員、国際機関の職員、そして貧富の差に関係なく老若男女あわせて6万人がこれに参加したとされている。

1ヶ月後、若者たちの姿を見るために再び広場を訪れた。そこには旧東ドイツのIFAのトラックで運ばれてきた何千人もの参加者の姿があった。「7月19日サンディニスタ青年部」のロゴの入った白いシャツとジーンズを身に着けているグループがあった。首や手首には赤と黒のバンダナを巻いていた。軍服のようなカーキ色の制服、ブーツ、帽子を着用している人たちもいた。恐怖はなかった。あるのは喜び、歌声、笑い声、誇り、希望だった。祖国と革命は彼らの努力に感謝し、両腕を広げて迎え入れた。参加者の多くは、初めて家族から離れて生活しようという人々だった。家族とともに過ごすという快適さを捨て、6ヵ月の間国内の主として貧しい地域で寝起きする。一番年下の子らは13~14歳であったが、ちゃんとやり遂げた。不識字率は50%から13%に下がり、この運動は国内からも国際社会からも称賛され、ユネスコの「世界の記憶」にも登録された(注:登録は2007年)。素晴らしきかな、革命!

私はこの最初の運動には参加しなかったが、その後5年間、できる限りのことをした。コーヒーや綿の収穫、塹壕掘り、豪雨による浸水で取り残されたスラム地域の人たちの救助、デング熱の予防啓発といった、様々な社会活動に参加した。7月19日サンディニスタ青年部は愛され、尊敬されていた。

この組織の教育や行動は軍隊式であった。小隊、中隊、大隊の一部となること、整列し、行進し、銃を分解したり組み立てたりすることを学んだ。数日から数週間、時には数カ月間にわたって家を離れることもあった。誕生日やクリスマス、新年は山の上で迎えた。米とフリホールとトルティーヤを食べ、板のベッドや土間で眠った。仲間の間でよく口に上ったのはマナグアに戻ったら何を買うかという話だった。チョコレートアイス、ハンバーガー、ピザ、炭酸水。恐怖も学んだ。夜、何もないところで、空腹や寒さに耐えながら、雨が降っても見張りをした。壊れかけのVz. 52小銃を抱えながら、私たちよりずっと良い装備を持つ反革命グループが遠くで銃を撃つ音を聞いた。

わかってもれないかもしれないが、当時の若者世代は、このプロジェクトに命を捧げる決意をしていた。かつて私が通った学校や他の学校には、今も戦いの中で倒れていった学生たちの写真が貼られているが、実際、そのように命を捧げる決意をしていた。この多くが私の親しい友人だった。実際に、これは戦いだった。革命を守るために5万人が亡くなっていったのだった。

その価値があったのか?

涙が溢れて来たので一旦手を止める。携帯をチェックしよう7月19日、SNSではニカラグアの友人たちがダニエル・オルテガとその妻ロサリオ・ムリーヨの政府の犯罪を告発している。友人たちにとって、今日は広場は存在しない。この年のスローガンは「オルテガイズムとの決別」であり、セレモニーには参加しないようにと呼びかけがなされていた。

現在40代、50代になっているかつての若者たちにとって、サンディニスモ(注:サンディーノ主義)を語るのは困難なことになってしまった。当時の革命運動の第一の目標は独裁者ソモサを倒すことだった。そこにはマルクスーレーニンの社会主義のみならず、ありとあらゆるイデオロギーが反映されていた。そんなに真っ赤な革命ではなかったからこそ、キューバよりもはるかに自由に、他の政党の創設や信教の自由や選挙が認められていた。ソモサの不動産を押収したが、社会主義的経済を進めることはしなかった。サンディニスタは、人権及び革命倫理・価値観の尊重という枠の中で、より多くの人が政治参加できるように便宜を図り、中央政府はより貧しい人々の生活状況の改善に力を注いだ。しかし現在の指導者らは理解しがたい腐敗の過程に陥っており、あの時の理想は既に失われているように見える。

次の世代により良い国を引き継ぐはずだった。強力なリーダーシップの必要性を理解し、抵抗しながらも指示を受け入れた。私たちは正当な社会の建設に参加しているのだとひたすら純真に信じていた。銃から花が咲く日もあるだろう、と。

しかしオルテガのシンパであるパラミリタリーが持つ武器から薔薇の花が咲くことはない。今日、ニカラグアは権力に渇える夫婦が引き起こした、巨大な政治的社会的危機の中にある。FSLN(注:サンディニスタ民族解放戦線、オルテガが率いる政党)は確かに先の選挙で70%以上の得票率で勝利したが、汚職と職権乱用に不満を持った市民が通りへ出て抗議を行うと、返答として銃弾の雨を降らせた。これにより既に350人以上が亡くなっている。

グアテマラでオットー・ペレス・モリナとロクサナ・バルデッティの政府による汚職に対する抗議を思い起こして欲しい。隠れていたいたパラミリタリーが集まった群衆に発砲し、頭を吹っ飛ばしたとしたらどうだろう。それほどにグロテスクな出来事だった。いかなる大統領にとっても、完全なる犯罪的過ちである。将来の政治的生命が断たれるのみならず、終身刑で獄中につながれるべき行為である。「新たなる人間」としてイメージを売ってきた革命のリーダー、そのイメージは暴君なき国を望んでいた市民の支援があったからだということを考えていてほしい。オルテガは怪物との闘いを率いたが、その跡を継ぐと、少しずつ別の人間へと変わっていった。

何にも増して悲しく辛いことに、先日のサン・パウロ・フォーラムでは、ラテンアメリカの左翼政権はこの政府を支援し、それにより犯罪に加担しることを宣言した。政府の姿勢や発言が、反帝国主義でさえあれば(もちろんこれはすべてアメリカの責任であるが)、「多少の」死者は問題ないかのようだ。その一方で、独裁者や政府が右であれば、人権侵害という批判を雨あられと降らせる。厳しく糾弾すべき出来事を前に、無責任かつ支離滅裂な態度を貫き、距離をおくことができないという無能さは驚嘆すべきものである。

もちろん、サンディニスタ政権を失脚させようとアメリカ政府がやったことは私も知っている。しかし、それと、現在ダニエル・オルテガがやっていることには何の関係があるというのか?

福音教会派的なメッセージに満ちた政府声明を出すこの夫婦の妄想も重要なことではないのだろう。オルテガはもはやどこかの教会の牧師のようである。神から選ばれた者と名乗り、悪魔を糾弾し、反対派の後ろには悪魔的カルト集団がいると言う。趣味の悪い冗談なら良かったのだが。「政教分離の国家を要求する」と言った真面目な要求にも回答することができない。常軌を逸していると言いようがない。

歴史的なFSLNの敵と交渉したことも、革命の指導者というイメージを弱体化させることはなかったようだ。それもこれも、できる限り長い間権力にとどまることができるようにと政府のありとあらゆる権力を自分に集中させた結果だ。こうして新たな独裁者が誕生した。グアテマラで、これを政治的に非難しない者を支援しないように注意すべきだ。前政権は私たちの不満を暴力をもって抑圧しようとしなかったが、URNG(注:グアテマラ革命同盟、元左翼ゲリラで現在は政党)やオルテガを支援する政党が権力についた暁には実行するだろう。ニカラグアの場合、他の政党がより良いというわけではないが、このような不正義には必要だ。このままではダメだ。

市民の政治家への信頼というものが、基礎部分にまで及んでいるということを再確認する必要がある。もちろん、私たちの選択肢はその政治家自身のイデオロギー、倫理、価値観、将来的な人間としての質といったものにより少しずつ減っていく。私は左から始めた。このイデオロギーに共鳴する人には、主張が一貫し、他人と協調し、誠実で分別のある人が多い。私たちの革命が奪われ、誇りをもっていられた政治的居場所が失われたことは残念でならない。

イギリスの政治家、ジョン・アクトンは「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」と言った。どの暴君が権力につこうとしているのを自分が助けるはめになるかなど、誰にもわからない。私たちの革命はダニエル・オルテガとロサリオ・ムリーヨの独裁政府のためではなかった。誰もそんなことを教えてはくれなかったが、なぜ自分たちがそこにいたのかを知っている。私たちこそが革命だったからだ。

海外ボランティア

こんな記事を読みました。

「その国のことをよく知りもしないまま、いきなり援助したいというのは失礼だ。それよりも先にその国のことを知ろう」という至極ごもっともな内容です。

その通り!と思う一方、そこまでハードル高くしなくても、気軽に行けるボランティアがあってもいいんじゃないかとも思います。

6月に日本に一時帰国していた時、日本からグアテマラへ戻る際に、ヒューストンからグアテマラへの便が学生さんたちのボランティアで一杯になっていたのを思い出します。夏休みを利用して、グループである地域に行き、そこでしばらく活動する。これだったら気軽に参加できますよね。

実際、そういうボランティアツアーはたくさん企画されており、グアテマラ側でも「外国人ボランティア」の受け入れを行う商売が成立しています。ちょっとググるだけで、そういうボランティアツアーがいろいろヒットするのですが、滞在期間は1週間から数週間まで。ボランティア活動の他、周辺の地域への旅行もついていたりして、至れり尽くせり。

こんなのが日本にもあればいいんじゃね?

と思ったら、ちゃんとありました。HISさん主催のボランティアツアー。カンボジアの孤児院を訪問して子どもらと遊び、アンコールワットも見てきちゃう。いいなぁ!!!

肩肘張って途上国の恵まれない人のために何かしようとするのもいいけれど、最初はこういうツアーを利用して少しずつその国のことを学んで行けばいい。そして地元の人と友人になっていけば、どんどん行動範囲だって広がるじゃありませんか。

まずは一歩を踏み出して、自然体でボランティアさせてもらえばいいんですよ。

「逃げるしかない」のか

7月22日付けで産経新聞Web版に「『逃げるしかない』 中米3国でギャング集団横行 治安悪化に貧困、政府無策も一因」と題された記事が掲載されています。ロサンゼルスの住井亨介貴社の署名記事。

どんなにアメリカが国境警備を強化し、不法入国した移民を勾留したり追い返しても、中米からの移民はなぜ後を絶たないのか?

という問いに対する答えの一つは住井記者も書いている通り「治安」です。相変わらず高い殺人発生率はエルサルバドルが人口10万人当たり99.7人とシリアに次いで世界で2位、間にベネズエラを挟んで67.7人のホンジュラスが4位、グアテマラはベストテン圏外の32.7人。ただし、グアテマラのこの数字は数年前と比較すると下がっているので、「治安が最大要因」とは言えないのではないかと思っています。

マラスの問題が顕在化したのは今世紀に入ってからではなかったでしょうか。東西冷戦が終わり、エルサルバドルやグアテマラの内戦も終わると、アメリカは当然ながら今までのように紛争地域からの移民を受け入れなくなります。むしろ、アメリカ国内でトラブルを起こしている移民を国外退去処分にした。当時すでにサルバトルチャ(MS-13)としてロサンゼルスで活動していたエルサルバドルのギャング集団が、本国にこの組織を持ち込んだのが、現在のマラスの始まりです。

MS-13はあっという間に勢力を拡大、グアテマラに入り込むのにも時間はかかりませんでした。やがて対抗威力であるバリオ・ディエシオーチョも登場し、両者の間で抗争があった時代もありました。今、手元に資料がありませんが、グアテマラで殺人発生率が一番高かったのはこの時期ではなかったかしら。

しかしやがてこの2つの勢力は住み分けするようになり、メインの資金源を恐喝にシフトさせます。商店、オフィス、住宅、タクシー、バス、配達人。自らのテリトリーに関わりのある者を片っ端から恐喝し、みかじめ料を支払わない者には暴力を振るう(含殺人)。グアテマラシティでも、ある地域は住んでいる人がごっそり逃げ出したりしています。折角手に入れたマイホームも、住むこともできなければ借り手もおらず、売れば二束三文。

近年ではマラスがグアテマラの首都圏のみならず、地方都市で勢力を伸ばしており、やがてはグアテマラの津々浦々にまで浸透しそうな勢いです。記事中、「雇用がない若者を狙って犯罪組織が勧誘する」と書かれていますが、勧誘などという生易しいものではないのでは。「仲間にならないと家族を殺す」と脅されマラスとなるケース、入ったら入ったで「人殺してこい」と命じられ、後に引けなくなったり。もう無茶苦茶です。

ただ、(これは以前にも書いたように思いますが)お金のある人はそのような危険な地域から逃げることができる。他の地域に引っ越したり、転職したり、自分を守ることが可能です。それができない人だけが危険に晒される。結局これは貧困が問題なのですよね。

そして恐らく、アメリカへ行くのは首都圏の人よりも地方の人が多いのではないかとも思います。誰かこれ、統計作ってないのかしら。田舎に行けば、必ずと言っていいくらい、アメリカに出稼ぎに行って稼いだ金で建てたという鉄筋コンクリートの家が見られます。そういう人が村に1人いれば、自分も、と思う人が出てきても不思議はない。目の前の貧困から抜け出せるんじゃないかと期待を抱く人のところにコヨーテという斡旋業者がやって来て、すっかりその気にさせてしまいます。グアテマラで多いのはこのパターンじゃないかと思うのですが。

その一方、確かに身の危険を感じて祖国を離れる人も確かにいるのです。以前メキシコで移民のケアをしている国境なき医師団のレポートを取り上げたことがありますが(中米北部三カ国から逃れて;北を目指す人々 故国を捨てる人たち 遠い道のり 難民申請)、その中から証言を2つここに再掲します。

ホンジュラス人男性 30歳
私はサン・ペドロ・スーラの出身で、向こうに町工場を持っていました。
ある日マラスがやって来て、「保護してやるからその分の金を支払え」と言ってきました。
私は払いませんでしたので、マラスは私を殺そうとしました。
最初は「払わなければ自分と子どもたちの血で支払ってもらう」と脅してきました。

ホンジュラスでは、殺人は日常のことです。
虫けらをつぶすくらい容易なことなのです。
前もって予告し、実行する。私の所にもやって来ました。
昨年の9月、頭部に3発くらい、2カ月の間昏睡状態でした。
それ以来、顔面が麻痺しており、うまく話すことができなければ、食べることもできません。
こちらの手の指も動きません。
でも、何よりも辛いのは、自分の国で暮らせないことです。
毎日、自分が殺されるのではないかとか、
妻や子どもたちに何かあるんでじゃないかと考えながら生活するのも辛いことです。
同時に、犯罪者のように逃げまくり、生活しないといけないのもまた辛いことです。

エルサルバドル人女性 (36)
2011年サンサルバドルのアメリカ大使館に難民申請をしました。
夫は元警官したが、マラスと働いていました。
違うバンダから、夫はスパイだから復讐してやると何度も何度も脅されました。
それは何とか我慢しましたが、今度は子どもたちを脅し始めたので、どこかへ行くことを考えるようになりました。
アメリカに住んでいる姉のところに行こうと思いました。
ですが、申請についての返答は一向に来ませんでした。
ですので、そこに残って耐えようと思いました。

夫は2015年に殺されました。
その後、奴らはやってきました。
息子をレイプし、私を家から追い出しました。
もう他にどうすることもできませんでした。
持っていたわずかな金を仲介屋に渡し、私達が国境を超えるのを手伝ってもらいました。
途中でレイプされたり誘拐されたりする人の話を聞いていたのですが、神様が助けてくれると思いました。

同じように見えるこの3カ国も、内情はそれぞれ若干異なりますし、ましてや不法移民の全てが「貧困」であるとか「マラスのせい」などと決めつけることはできません。

そして「政府の無策」。ジミー・モラレス政権では、無知の知をかこつけて何もしないことが最善と思っているのでは。。。何かをすればお友達に便宜を図るためだったりするしね!

そんなことを書いていある間にも、命がけで国境を超える人は後を絶たないのだと思うのですが。