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アレハンドロ・マルドナド「証人の中の証人」

今日のタイトルは前大統領アレハンドロ・マルドナドの著作なのですが、読んだわけではありません。

本日、グアテマラシティの書店でこの著作のプレゼンテーションがあったのですが、これにマルドナドがやって来ており、インタビューというか半ば独演会が行われたのでした。

Alejandro Maldonado Aguirre

右側は会場となった書店のオーナー(多分)、左側がマルドナドさん。写した場所がちょっと後ろすぎかも。

アレハンドロ・マルドナド・アギーレについては大統領在任時に簡単にまとめていますが、1936年生まれで82歳、現在は中米議会議員です。著作「証人の中の証人 (Testigo de los Testigos)」は初版2004年(ピエドラ・サンタ社)、改訂新版が2012年(セルビプレンサ社)に出ており、今回のプレゼンテーションで使われていたのは2012年版の方でした。2004年当時は国会議員(ウニオニスタ)、2006年から2015年まで憲法裁判所判事だったということは付け加えておいた方が良いかな。この憲法裁判所判事時代には、エフライン・リオス・モントに対する内戦時の人権侵害容疑でスペインから身柄送致請求があった時、これを拒否するのに重要な役割を担った人でもあります。

マルドナドさん、話し出すとやめられない止まらない。特に若い頃のお話はおもしろいのですが、お陰であっという間に時間が来てしまいました。

覚えている点を書いておきましょう。

ライバルと目されていたマヌエル・コロン・アルゲタについて。マルドナドによると、メメ・コロンは社会民主主義、自分はリベラルな民主主義と、イデオロギーは異なる。1970年の選挙ではメメ・コロンとグアテマラ市長の座を競った。この時はメメ・コロンが当選、マルドナドは次点であったが、テレビのインタビューで落選を認めたため、所属政党からは色々批判されたが、メメ・コロンはこれ以降、マルドナドと親しくなる。コロンは中央政府とは良い関係を築けないでいたが、マルドナドは教育相として政府にいたので、コロンは度々マルドナドの元を訪ねていた。この2人の関係が良好だったために、テレビでの対談が実現したのでした。

なお、この対談は書籍化もされています。

当時はイデオロギーの相違を乗り越えることのできた時代だったのですかねぇ。今ならマルドナドすら左とか言い出す人が出てきそうな勢いのグアテマラですが。

書籍を買ったので、読んだら(いつのことやら)改めて書評書いてみたいと思います。

なお、マルドナド曰く、元大統領フアン・ホセ・アレバロの書作「大統領執務室 (Despacho Presidencial)」は正確な良書なのでオススメとのこと。マルドナドさんの本が読めたら考えよう。だって500ページ以上もあるんだもん。フアン・ホセ・アレバロはマルドナドにとって理想の大統領だったのではないかな。なんてことを想像しながら読んでみたいと思います。

ただし、今別の本を読んでるので、それが終わってから。なんてことを言ってたら、ずーっと読めないままになっちゃうかもしれませんが。

アレハンドロ・マルドナド大統領 III

70年代から80年代というのは、グアテマラのみならず、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグアといった他の中米諸国にとっても激動の時代でした。ちなみに、1980年はモスクワオリンピック、1984年にはロサンゼルスオリンピックが開催されていますが、どちらも多くの国のボイコットがあった、冷戦真っただ中の時代でもありました。

1979年、ニカラグアでは独裁政権であったソモサが倒され左翼のサンディニスタ政権が誕生します。当然これはエルサルバドルやグアテマラと言った他の国に大きな影響を与えます。左翼ゲリラが勢力を拡大し、エルサルバドルでは1980年内戦突入。グアテマラでは左翼勢力の拡大を恐れた政府が手当たり次第の暗殺を始めます。それがフェルナンド・ロメロ・ルカス・ガルシア大統領。グアテマラの暗い抑圧時代の始まりです。

1982年3月に実施されたグアテマラの大統領選挙では、またしても選挙操作があったと言われていますが、マルドナドは3位に終わります。この時当選したのはアンヘル・ゲバラ。次点はマルドナドが以前父とも師とも慕ったマリオ・サンドバル・アラルコンでした。

サンドバル・アラルコンは1974~78年クヘル・ラウヘルー大統領時代に副大統領を務めていますが、殺人部隊(Escuadrón de la Muerte)を使って敵と見なす人物を次から次へと暗殺しており、殺害された人の数は6万人とも言われています。マルドナドはサンドバルのような殺戮を好みませんでした。前回のマヌエル・コロンとの討論を見て頂ければわかると思うのですが、コロンのようなカリスマはありませんが、訥々とした語り口とか座り方からは誠実な人柄がにじみ出ています。何故か聞き入ってしまうのですよね、マルドナドの言葉って。「マルドナドは右というよりは中道」と元大統領のビニシオ・セレソも言っていたそうです。

この82年の総選挙が実施されてから2週間後、ルカス・ガルシアがまだ大統領であった時にクーデターが起こり、エフライン・リオス・モントが政権を取ります。ゲバラは結局大統領に就任できず。そしてリオス・モントは83年にクーデターで倒され、オスカル・メヒア・ビクトレスが政権を取ります。

メヒアは1985年に総選挙の実施を目指して準備を行い、同時に制憲議会を召集して憲法の制定を行いました。この憲法は現在も使われているものですが、3つに分かれた制憲グループの内、マルドナドは「憲法による保障及び憲法の規定による保護 (Garantias Constitucionales y Defensa del Orden Constitucional)」の辺りを策定するグループの班長(?)だったそうです。そんなわけで憲法にはメッチャ詳しい。

そして85年11月の大統領選挙に出馬するのですが、この時は惨敗。この選挙で当選したビニシオ・セレソに「ボク、憲法裁判所に行きたい」と申し出て認められ、憲法裁判所判事となったのでした。

憲法裁判所はその名の通り憲法判断を専門に行う裁判所で、前身が創設されたのが1965年、現在の形になったのは1986年。判事は正が5人、代理が5人の合計10名、任期は5年。マルドナドは4度憲法裁判所判事に任命されていますが、彼が担当した裁判の中で一番物議を醸したのは2013年のエフライン・リオス・モントに対し内戦時の虐殺で有罪とした判決を無効とした決定ではなかったでしょうか。この時、5人の判事の内、マルドナドを含む3人が「判決は無効」という判断を下しています。

マルドナドは2011~16年の任期で憲法裁判所の判事に任命されていたのですが、ロクサナ・バルデッティ副大統領の辞任に伴い、オットー・ペレス大統領(当時)より副大統領候補のリストに含められ、国会により選出されたのでした。副大統領就任は2015年5月14日。

そしてオットー・ペレス大統領の辞任に伴い、79歳にして子供時代の夢を実現してしまったマルドナド大統領。大統領就任は9月3日でした。

9月17日、ようやく副大統領が決まった日の夜のことでした。大統領、自宅で携帯電話に応えようとして階段を踏み外し、怪我をします。そこで何をしたかというと・・・何とツイート!!!(爆)

「携帯電話に出ようとして、階段を踏み外した。忠告:階段を下らないこと!!!」多分「携帯電話に出る時には」か何かが抜けているんだと思うけれど、このツイートが大人気で国民のハートをつかんでしまいました(笑)。

終始穏やかでニコニコしていることも人気の理由だと思います。副大統領に就任した時は「あんな老人副大統領にして、きっとお飾りだよ」とか揶揄されていたんですが。エル・カンブライの土砂災害でも迅速な対応を行っていますしね。ちなみにCONRED(災害対策連絡協議会)のトップはやはりアレハンドロ・マルドナドというのですが、大統領の息子さんだそうです。

マルドナド大統領の任期は残り3ヶ月を切っており、短い期間ではありますが、人の記憶に残る大統領となりそうな気がしています。

*この記事はプラサ・プーブリカの記事をベースに、他の資料も調べながら書いたものです。

アレハンドロ・マルドナド大統領 II

ハコボ・アルベンスが大統領であった1954年、アレハンドロ青年はメキシコへ行きます。グアテマラとの国境に近いタパチュラから武装グループを率いてグアテマラへ侵入し、グアテマラ東部から首都を目指すカルロス・カスティーヨ・アルマスを支援するためでした。

ところが、いざ鎌倉!ではなくていざテクン・ウマン(グアテマラとの国境の町)!!と雪崩れ込もうとした時にアルベンスが辞任したというニュースが伝わったのでした。1954年6月27日のことです。

こうしてアレハンドロ青年は手を汚すことなく目的を達成、カスティーヨ・アルマスこそがフアン・ホセ・アレバロの真の後継者だと、期待をかけていたのでした。アメリカではマッカーシズムが吹き荒れていた時代です。

カスティーヨ・アルマス(大統領在任1954-57)はCara de Hacha(まさかり顔)というニックネームを持っていたそうですが、顔で相手を殺すという意味ではなく、造形の深い顔(アルゼンチン人のことをよくこう言うようです)という程度の意味ではあったのですが。

カスティーヨ・アルマスはアルベンスが左へと大きく舵をとった政策を無き物とし、右へと急旋回。アルベンスが合法化したグアテマラ労働党(共産党)は解散を命じられ、集会の権利は禁止され、共産主義者と見られる人物への取り締まりというよりは迫害・暗殺が始まります。アルベンスの農地改革法は無効となり、農民に分け与えられた土地は取り上げられて再びユナイテッド・フルーツ・カンパニーのものに。こうしてグアテマラもマッカーシズムの波に飲み込まれていったのでした。

この時期、アレハンドロ青年は国立サンカルロス大学の法学部に進学するとともにマリオ・サンドバル・アラルコンの元、大統領府で資料を集めたり文書を作成する仕事を始めます。1957年にカスティーヨ・アルマスが大統領公邸で暗殺された時、アレハンドロは深く悲しんだと自著に記しています。

全国解放活動(MLN – Movimiento de Liberación Nacional)という極右政党の青年部のメンバーでもあったアレハンドロでしたが、「全国民の家庭に鶏肉を」を公約に掲げていたミゲル・イディゴラス・フエンテス大統領(大統領在任1958-1963年)の政権には反対していたと伝えられています。

軍人であるイディゴラス・フエンテスは右翼政権でしたが同じ右翼からも汚職と無策の政権に反対する人が多く、1960年には若手将校らがクーデターを起こしたものの失敗、東部に逃れて潜伏。こうして36年に及ぶ内戦が幕を開けたのでした。この時期、アレハンドロ青年も逮捕されたものの、当時大臣であった友人の仲介により釈放されています。

イディゴラス・フエンテスの次の次、フリオ・セサル・メンデス・モンテネグロ大統領時代(1966-70年)、アレハンドロ青年は国会議員となり、MLNから大統領に当選したカルロス・アラナ・オソリオ大統領時代(1970-74年)には教育相と着々政治家としての経歴を積み上げていきます。

内戦が深刻化していった時代に政治の中枢にいたアレハンドロ・マルドナドですが、この時のことについては多くを語ろうとしません。アラナ・オソリオ政権下で殺されたり行方不明となった人の数は7000人以上に上ると言われています。

ちなみに、国内の各地に軍事基地を作り、港湾や税関施設に国軍を配置して、現在に至るまでの軍が深く関係している税関汚職の基礎ができあたっがのがこのアラナ・オソリオが大統領であった時代のことでした。

マルドナドはその後は少し国内政治を離れて1974ー76年ニューヨークの国連代表部大使、78-80年ジュネーブの国連欧州本部大使となります。

その頃Estudio Abierto(オープンスタジオ)というタイトルのテレビ番組があったのですが、マルドナドは右の代表として、左の代表らしいマヌエル・コロン・アルゲタ(1970-74年グアテマラ市長)と共に出演しています。

若いよ、大統領!!!いやでもメメ・コロン、格好いいなー(←ミーハー)。足の組み方、甥っ子のアルバロ・コロンも同じだったな。ついでに間に入ってるCMが楽しいです(笑)

上のビデオは1978年1月頃に放映されたもので、1976年9月にも同じ顔ぶれで同じ番組に出演しています。1978年は3月5日には総選挙が行われ、フェルナンド・ルカス・ガルシア(大統領在任1978-82年)が当選しました。

マヌエル・コロンは1979年3月に、司会を務めていたマリオ・ソロルサノ・フォッパは1981年6月に、いずれもグアテマラシティで殺されています。

一人だけ生き残ったマルドナドは1982年、大統領選挙に出馬します。

この項、もう1回続きます。

アレハンドロ・マルドナド大統領 I

ちょっと今さらなんですが、今日は現大統領アレハンドロ・マルドナド・アギーレ(Alejandro Maldonado Aguirre)のバイオグラフィーなどを。

ロクサナ・バルデッティの副大統領辞任の後本年5月14日に副大統領に就任、オットー・ペレス・モリナ大統領の辞任を受けて9月3日に大統領就任と、タナボタ的に大統領になってしまったアレハンドロさんですが、実は6歳の頃「大きくなったら大統領になる!」と言っていたんだそうです。

アレハンドロさんは1936年生まれ。1936年と言えば昭和11年で、
日本では職業野球が始まり、
ドイツではガルミッシュ=パルテンキルヒェンで冬季オリンピックがあり、
日本では二・二六事件やら阿部定事件があり、
スペインで内戦が勃発し、
ベルリンで夏季オリンピックがあり、
ソ連ではスターリンによる大粛清が始まり、
イギリスではエドワード8世が即位したと思ったら直ぐに退位してジョージ6世が即位し、
なぜか柴犬が天然記念物に指定されたという年でありました。
長嶋茂雄さんが生まれたのもこの年ですね。

グアテマラ的には、当時の大統領は独裁者として名高いホルヘ・ウビコ(大統領在任1931-44)でした。国民からの激しい抗議に持ちこたえられず辞任するという、最近どこかの国で見たのと同じような経緯を経たわけですが、後任には自分が操りやすいと見たフェベリコ・ポンセら軍人3人を任命しておきます。しかしポンセらも持ちこたえられず十月革命の後グアテマラ初の選挙が実施され、フアン・ホセ・アレバロが大統領に選出されたのでした。アレバロの得票率はなんと85%の圧勝。

アレハンドロ少年が「大統領になる!」と決心したのは6歳の時と言いますから、ウビコ政権末期にあたります。その後の民主主義の萌芽を見て、その決意が固くなっていったのは想像に難くありません。

アレバロの後を受けたハコボ・アルベンス(大統領在任1944-1951)が大統領であった頃、アレハンドロは反共産青年同盟(Alianza Juvenil Anticomunista)に加わります。このグループのリーダーはグアテマラの極右のリーダーとしても知られるマリオ・サンドバル・アラルコン(後に副大統領、内戦時代、暗殺部隊にも関与していた)。当時国外で亡命生活を送っていたカルロス・カスティーヨ・アルマスを支持しており、アルベンス打倒のために活動していたのでした。

というわけで、アレハンドロはアルベンスのことを「共産党員で、グアテマラをソ連のようにしようとしている」と非難していました。アルベンスの農地改革は「土地を接収して国有化しようとしている」と映っていたのでした。

この項、続きます。