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性犯罪統計

INACIFというのはグアテマラの法医学研究所(Instituto Nacional de Ciencias Forenses)のことです。司法解剖を行う以外にも、大規模災害では遺体の身元確認に尽力する機関でもあります。

そのINACIFの今日のTwitter。

縦長のイメージなので全部見えてませんが、タイトルは「性犯罪の予防と撲滅」。今年1月から9月までの統計です。

それによれば、性犯罪被害にあったとしてINACIFで診断を受ける人の数は1日平均23人。

1月から9月までって、273日ありますから、のべにすると6,279人になります。グアテマラは、特に地方ではこの手の犯罪が告発されることはないですから、ほぼ都市部での被害届のあった数となるでしょう。その都市部の被害と言っても氷山の一角に過ぎないのでしょうが。

さて、その23人の内、年齢別では10〜14歳の被害者が7件と約1/3。さらに被害者が女性・少女である割合が90%となっています。

この期間にINACIFが診断した20歳未満の少年少女・児童の数は3,830人。半数以上に上ります。被害届を出すのが未成年者に多いということなのかもしれませんが、何ともやりきれない数字です。この内訳は5〜9歳が702人、10〜14歳が1,791人、15〜19歳が1,337人。10歳以下がこんなにいるというのもまた。。。

この統計には出ていませんが、こういう性犯罪の加害者が被害者の近親(実の父親、養父を含む)であることもまた多く、ホントにグアテマラの闇となっています。少しずつでも、被害者が声を上げることで加害者がふさわしく処罰されること、そして被害そのものが減っていくことを願ってやまないのですが。

こんな統計が出てくるだけでも少しは前身しているのだと思いたい。先は長そうですが。

炭の上の人形たち

グアテマラ人作家ロドリゴ・レイローサの「その時は殺され… (Que me maten si…)」には、グアテマラ北部、リオ・ドゥルセの付近にある少年少女の保護施設が登場します。人里離れたところにあるこの施設には、問題のある家庭などから保護された少年らが暮らしており、外国人ボランティアが良く訪れる場所でもありました。

しかし同時にこの施設には人身売買や売春といった暗い噂がありました。そしてそれを突き止めようとしたルシアンが「事故死」するのです。

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一昨日サン・ホセ・ピヌラの少年らの保護施設で起こった火災は、それ自身が悲しく、残酷な出来事だったのですが、その後この施設に関して報道されていることを見るとあまりにもおぞましく、レイローサのこの小説を思い出したのでした。

「その時は死に…」では、施設で実際に何が起きているのかについては、本題ではないので触れられていません。小説そのものは、真っ暗な闇にぽっかり穴が開いているような、そんな不気味さを感じさせるのですが、この「被昇天の聖母セーフハウス」で起こった現実の方が、小説を超えて遥かにおぞましい。

問題のある家庭や路上生活から「保護」された子らが預けられた「セーフハウス」がちっともセーフじゃなかったという現実は重いです。国の無策もそうなのですが、大人である私たちが未来を担うはずの子らをこんな酷いめに合わせて、知らんぷりしていたのかと。何年も前から度々ニュースとなり、取り上げるメディアもあったのですが、私は今の今までその存在を気にも留めたことがありませんでした。

写真は昨日大統領官邸前に置かれた抗議の人形。火災発生当日、社会福祉庁長官が記者会見を行ったのですが、ジミー・モラレス大統領は「緊急の用件があるため」顔を出さなければコメントも行わず。事件発生の翌日になってやっと記者会見を行ったのですが、その内容も「責任は我々全員にある」と被害者感情を逆なでするような発言でした。

モラレスがまだ大統領候補であった当時、カンブライ地区の土砂崩れが起きて多数の死者が発生したのですが、この時モラレスは現場を訪れて被災者への寄付をしていました。それが何という変わりよう。亡くなった子らと、まだ生きている子らのために、今こそ大統領として対策をとって欲しい。切に、切に願うのですが。

1981年CIDH報告書(12. スペイン大使館)

1980年に起こったスペイン大使館事件は、結果としてスペインがグアテマラと国交を断絶するという重大事件となり、内戦史では必ずと言っていいほど取り上げられるものではありますが、なぜ、どうして、という部分は未だによくわかっていないまま。CIDHは次のようなレポートをまとめています。


1980年1月31日午前11時、キチェー県の農民23人とグアテマラシティの民衆組織のリーダーら、合計29人がスペイン大使館の中に入っていった。当時、大使館の中にはマクシモ・カハル・ロペス大使、大使館員の他、元グアテマラ副大統領のエドゥアルド・カセレス・レーンホフ、元グアテマラ外相アドルフォ・モリーナ・オランテスがいた。

大使館はあっという間に警察官約400名に取り囲まれた。グアテマラ政府は大使館からの要請を受けて警官隊を派遣したと主張しているが、大使やマスコミはそれは事実と異なると主張している。農民らは警官隊が引き上げれば、人質とともに静かに退去すると言っていた。

大使はメガフォンを使って、警官隊にこの場に警察は必要ない、外交使節の不可侵権の侵害であると話した。カセレス、モリーナ・オランテスの両氏もその主張に賛同した。

午後1時30分、警官隊は大使館の屋根とバルコニーを占拠した。午後2時、現場責任者にパトカーの無線で上官からの指示があった。2時15分、警官隊は2階の明かり取りの窓を破って中に進入した。2階には農民らと人質がいた。大使は再び外交使節の不可侵権を尊重するよう主張した。交渉を行おうとしていた赤十字やマスコミが建物から出た時に、農民や人質がいた部屋のドアを破る音が聞こえ、続いて銃声3発と爆発音1発が響き、火災が発生した。大使は「野蛮な奴らだ、獣だ」と叫びながら走って逃げた。モリーナ・オランテスの最後の言葉は「何てことだ、何をしたんだ」であった。大使はパトカーの中に10分ほど拘束されたが、アメリカ大使館の人物の交渉により解放された。

事件について「アキ・エル・ムンド」というテレビ番組では、火災が発生した時に警官隊は何もしなかったと報道した。通りの群集は「中に人がいるじゃないか、ドアを破れ」と叫んだが、微動だにしなかった。

やけどを負って脱出した大使はスペインのマスコミに対してこう話している。「交渉すれば何とかなるとずっと思っていた。警官らが斧で私の小さな執務室のドアを破り始めた時、中にいたのは34人だった。銃声が起こり、誰もが混乱した。誰かはわからないが、占拠していた人物がモトロフ・カクテルをドアに投げた。私は出口の近くにいたので、サーカスのライオンのように火のついた衣服のまま飛び降りた」。

スペイン政府の公式報告書は「大使は何度も外務省、内務省、警察庁長官らと連絡を取り、大使館から警察隊を引き上げ、干渉しないようにと要請したが、何ら回答を得られなかった」と記している。

このような状況で、カハル・ロペス大使は大使館を取り囲んでいる警察隊の責任者に直接、占拠者らは自分と一緒に退去すると言っているので、警官らを引き上げて欲しいという要請を繰り返した。これらの要請にもかかわらず、警官隊は占拠者と人質のいる大使館に突入したのである。

生存者はカハル・ロペス大使と重傷を負った農民のグレゴリオ・ユハの2人だけで、いずれもエレーラ・ジェランディ病院に運ばれた。

2月1日午後8時30分、重武装した一団がエレーラ・ジェランディ病院に侵入し、ユハを拉致した。一味は12区のサン・カルロス大学学長室前にユハの遺体を放り出した。遺体には「裏切り者には死を、スペイン大使も同じ運命だ」と脅迫が記されていた。カハル・ロペス大使は身の安全を守るためにエレーラ・ジェランディ病院からアメリカ大使館に移された。

翌日、スペイン政府はグアテマラと断交した。


そしてこの後犠牲者37人の名前がずらっと連なります。訪問者2名、大使館関係者8名、農民ら27名。ノーベル平和賞のリゴベルタ・メンチュさんの父親ビセンテ・メンチュさんもこの事件で亡くなっています。

農民らと一緒に行動した学生が4人ほどいるのですが、この学生らはゲリラのEGPに連なる組織に属しており、ビセンテ・メンチュさんは農民組織のCUCのリーダーでありました。スペイン大使は農民らに同情的と見られていたようで、まあ当局的には信用のできない人物だったのかも。

この事件はリゴベルタ・メンチュさんがスペインの法廷に提訴しており、当時の内務省長官だったドナルド・アルバレスに逮捕状が出ているものの、現在逃亡中。

1981年CIDH報告書(11. リオ・ネグロ)

キチェー県の山奥に源のあるチクソイ川は、キチェーとベラパスの県境を北上し、やがてサリーナス川に、そしてウスマシンタ川に合流してメキシコ湾へと流れ出していく川です。この川にあるチクソイ水力発電所は国内最大の水力発電施設で、キチェー、アルタ・ベラパス、バハ・ベラパスの3県の県境にまたがるこの発電所は1976年着工、83年竣工。

このチクソイ川の別称はリオ・ネグロ(黒い川)。不幸なことに1982年の虐殺事件で有名になったリオ・ネグロという村がバハ・ベラパス県のラビナルにありますが、この報告書に出てくるリオ・ネグロは「アルタ・ベラパス県のプエブロ・ビエホという市に属する」と記載されており、ラビナルのリオ・ネグロとは別の村のことなのかもしれません。

チクソイのダム湖のほとりにプエブロ・ビエホという村はあるようですが、キチェー県側。大体プエブロ・ビエホなんて市は存在していないし…。というわけで、ここに出てくるリオ・ネグロがどこのことなのか、今一つはっきりしないのですが、以下では原文通りにしておきます。


リオ・ネグロはアルタ・ベラパス県のプエブロ・ビエホ市に属する村で、ここにチクソイ水力発電施設が建設されている。この発電所はこの地域一帯、特にフランハ・トランスベルサル・デル・ノルテにある銅やニッケルの重要な鉱床の採掘に電気を供給することになる。また、ここにはまだ採掘は行われていないが、油層も存在している。

1980年3月4日、リオ・ネグロに兵士の一団が到着した。兵士らは途中で捕らえた3人を連行しており、いずれもゲリラだと言っていた。村に到着すると、3人は大声をあげて自分達が囚われていることを知らせようとした。群集が兵士らを乗せた車の周りを取り囲んだ。3人は村人とも顔見知りであり、村人の中には3人を解放するよう頼む者もいれば、どこか他のところへ連れて行ったり、殴ったりせず、3人の家族のことを考えてくれと懇願する者もいた。群衆を見た兵士らは一斉射撃を行い、女性2人を含む6名がその場で亡くなった。負傷者は13人であった。


フランハ・トランスベルサル・デル・ノルテ (Franja Transversal del Norte: FTN) は北はメキシコ国境、南はチャマ山脈に挟まれた地域をイサバルからウエウエテナンゴまで東西に横断する帯状の地帯のことです。

当時、ダム建設はグアテマラの大規模事業だったわけですから、付近に兵士の姿が増えるのは当然なのでしょうが、村人を守るのではなくこういうことをするから軍は嫌われる。こうして自らゲリラのシンパを増やして内戦を激化させていったのだとしたら、悲惨すぎて言葉もありません。

1981年CIDH報告書(10. ネバフ)

ネバフはチャフルと同様、イシル地方にある町です。イシル地方最大の町でしたが、内戦の期間を通じ、人口の69%が町を出たり亡くなったりしたと言われています。


d) ネバフの出来事

グアテマラ北東部、キチェー県に位置するネバフ市はグアテマラでも人口密度の高い地域である。パンソスと同様、ここでも多くの農民が土地を奪われている。これに対し、先住民の農民は法的権利を主張するために組織化した。国内の農地は年々拡大しているが、新たな土地は外国資本の資源発掘に提供され、農民らは前世紀末(訳注:19世紀)から彼らのものであった土地を放棄せざるを得なかった。

農民らから土地を取り上げるためには合法・非合法の2つのやり方があった。地元の大地主がその土地は自分のものであるという書類を提出して登記するのが合法的やり方。多くの場合、農民らはその土地が自分のものであるということを証明できず、立ち退きせざるを得なくなる。大量の兵士の一団を送り込むのが非合法なやり方。人々を脅したり怖がらせたりするもので、この方が容易に立ち退かせることが可能であった。

さて、ネバフでは次のような出来事があった。

1980年3月2日に国軍ネバフ基地で「軍登録証」を発行するので、14歳以上の男子は全員集まるようにという告知があった。この登録証を所持しない者は町から出ることができなくなるという話であった。実際のところ、住民にはセドゥラ(注:グアテマラで使用されている身分証明書)以外の身分証明書を所持する義務はなく、従ってこれは違法な措置である。

当日は約8000人が集まった。手続きには時間がかかった上、その日は市の日であったため、大量の群集となった。このままでは多くの人がその場で夜を過ごさなければならないことは明白であったが、周辺の町や村から来た人達はそのための準備をしていなかった。食べ物を用意してきていないので、家に帰りたいという人も多かった。

200人程が手続きを終えた時点で、終了までには2日以上かかることが明らかとなっていた。群集は騒ぎ始め、兵士らは何人もの農民を捕らえて基地に拘留した。

翌日、逮捕・拘留されている夫らと会わせて欲しい、このような不正をやめて欲しいと主張する女性グループが基地にやって来た。兵士と女性らの間で口論が起こり、事態は緊迫した。兵士らは群集に向って一斉射撃を行った。その場で亡くなった10人の内、6人が女性で、その中の1人は未成年であった。多くの負傷者が発生した。


前段に記されている土地の強奪は、現在もなお続いているものです。さすがに軍人が…というのはないようですが、土地の登記書を勝手に書き換えるという手口は、まったくそのまま残っています。

1982年、エフライン・リオス・モントが大統領であった時、このネバフ基地の司令官となったのが当時32歳だった現大統領のオットー・ペレス。現在リオス・モントがジェノサイドの容疑で係争中ですが、リオス・モントが有罪となった場合、当時司令官であったペレスはどうなるのか。

もちろん大統領である現在は不逮捕特権がありますが、その後はリオス・モントのように被告席に座る可能性もひょっとしたらあるのかも…。

1981年CIDH報告書(9. チャフル)

チャフルはイシル族の人達が多く住むキチェー県の奥まったところに位置した町です。キチェー県北部のイシュカン地方と県都などのある南部を結ぶ場所にあり、ゲリラにとっても戦略的に重要な意味を持つ場所であったが故、内戦の激戦地となってしまった地域でもあります。


c) チャフルの虐殺事件

1979年12月6日、ウスパンタンの農民9人が国軍によって拉致された。この内2人はその後逃れることができた。

軍は農民7人をヘリコプターに乗せてチャフルまで連れて行った。チャフルに着くと、全員にカーキ色の服を着せ、壊れたショットガンを渡し、農民らだけでチャフルの市街地まで街道を歩かせた。兵士らは途中で一行を待ち伏せ、チャフルの基地を襲おうとしていたゲリラだと言って全員を殺害した。7人は街道を通る人の目に晒された。軍はチャフル市長に遺体を埋めるように指示し、7人はチャフルの墓地に掘られた2つの穴に埋葬されたが、遺体の1つはガソリンをかけて焼かれていた。

虐殺の20日後、軍は追跡、コントロール、大量の兵士の駐留、家宅捜索、農民の拉致といった方法でチャフルの住民に対する締め付けを強化した。

被害者はガスパル・チャベス・パチェコ、ペドロ・チャベス・カバ、アントニオ・チャベス・カバ、ガスパル・ライネス、サルバドル・ボプ、ルカ・カバ、トマス・カバである。


ウスパンタンはノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュの出身地。イシル地方に隣接する町でもあります。リゴベルタさんの弟さんも79年にウスパンタンで捕らえられ、拷問を受けた後、ゲリラとしてチャフルで処刑されたのだと「私の名はリゴベルタ・メンチュウ」に書かれています。この時期この地方がターゲットとなったのは、CUC(農民統一委員会)という農民グループがこの地で組織されたことと関係があるようで、この事件を期にこの地域への弾圧は激しさを増して言ったのだそうです。

なお、上記の虐殺事件はCEHの報告書によると9月に拉致され12月に処刑されたとなっていますが、CIDHの報告書では12月と書かれているのでそのままにしてあります。

1981年CIDH報告書(8. オロパ)

続けてCIDHの報告書から。オロパはホンジュラス国境に近い山間の市です。グアテマラの場合、地方自治体はすべて「市(municipio)」と呼ばれ、この市の中に村や集落が存在することになります。そんな人里離れた村で起きていた事件。


b) オロパの事件

CIDHが受け取った告発は次の通り。

チキムラ県オロパ市エル・ロデオ、アマティーヨ、アグア・ブランカ、エル・カマロテ、トゥノコ、カリサリート及びその他の村の農民らに対する虐待について、次の通り告発を行う。

1977年以降、エスキプーラス市モンテーロスのPMA(憲兵隊)は、同地のカテキスタ(注:宗教教育を担当する人)、女性15人、子供40人を含む100人以上を殺害している。

この状況は、去る9月に同地に土地を所有する農場主セサル・レムスとドミンゴ・インテリアーノに命じられたPMAが農民8人を拉致して以降悪化している。この8人は後に川で溺れたり、首吊り死体となって見つかっている。9月26日には農民15人がPMAに拉致され、後に殺された。翌27日にはアマティーヨ地区の地区長であるフランシスコ・ガルシアが事件について届け出、遺体の身元を確認するためにオロパの裁判所に向った。しかしガルシアはその夜拉致・殺害された。被害者の遺族や友人らは、PMAを恐れていたので、被害者の遺体を埋葬することができなかった。

上記に加え、PMAの残虐な犯罪行為についても告発する。PMAは村にやってくると子供たちを捕まえて背骨を折り、女性を絞殺し、男性を川に投げ込んで溺れさせて銃殺した。それから住居や作物を焼き払ったのである。

数ヶ月前にはパンソスの虐殺事件について告発を行ったばかりであるが、少数の土地所有者の止まるところを知らない欲と、それに共謀する当局のために、オロパの住民らに同じことが繰り返されているのを見て激しい怒りを感じる。セサル・レムスとドミンゴ・インテリアーノは農民らの土地を奪おうとしている。農民らの糧である作物を台無しにするために畑の柵を取り払い家畜を侵入させている。そうしてコーヒーやフリホールの収穫を台無しにした上で、土地を奪おうとしているのである。

このような嫌がらせのため、エル・サルサル、ピエドラ・アモラール、エル・アマティーヨといった村は事実上放棄されてしまった。土地を出て行かざるを得なくなったのである。地主らは、農民自らが絶望して土地を放棄するように仕向け、違法に自らの土地を拡大しようとしているのである。

CIDHはこの告発に対して手続きを開始した。

グアテマラ政府からは1979年3月1日に次のような書簡での回答があった。

CIDHに告発があった件について、事実関係は次の通り。エスキプーラス市カルボネラ村、オロパ市及びカモタン市のフィピリンゴ、サルサル、モンテーロス、サン・ホセ・ラス・ラグリマス、エル・ロデイート、トゥンコ、サン・アントニオ・エル・カリサルの各村では1977年以上、暴行、拉致誘拐、殺人、放火、窃盗といった、あらゆる種類の犯罪を働く犯罪グループの被害を被っている。犯罪者集団を恐れて住民らは住居を捨てて山中に逃れることを選び、中にはホンジュラスに向った者もいる。最終的には、住民から国軍に対して支援要請があり、国軍がこれを実行することによって、最終的に自宅へと帰還している。

この状況は1978年12月6日付エル・グラフィコ紙、インパクト紙、ディアリオ・デ・セントロアメリカ紙及び12月7日付でラ・オーラ紙に掲載された例を挙げてみる。紙面には事実関係とグアテマラ国軍の関与が記述されているが、これは脅迫の被害者であった住民ら自らが国軍の派遣を要請したものである。農民らは犯罪を防いでくれる軍当局に感謝している。


PMAはPolicía Militar Amblanteの略で、直訳すると巡回憲兵みたいな感じではないかと。1965年に創設され、軍からも警察からも独立した独自の組織ではあったものの、実際には軍、特に情報部の配下として活動することが多かったとされています。

公共施設や設備、更にはプライベートセクターの警護を担当していたのですが、ゲリラと見なした人物を逮捕・尋問する権利を有していたこともあって、内戦の激化と共にPMAが関わる人権侵害事件もどんどん増えていったのでありました。

CIDHに対してなされた告発がPMAを訴えているものであるのに対し、政府の回答はPMAについて一言もメンションしていない。告発は事実であり、政府にはPMAをどうこうする気はない・・・ということの証左なのでしょうか。