Daily Archives: March 31, 2013

1981年CIDH報告書(9. チャフル)

チャフルはイシル族の人達が多く住むキチェー県の奥まったところに位置した町です。キチェー県北部のイシュカン地方と県都などのある南部を結ぶ場所にあり、ゲリラにとっても戦略的に重要な意味を持つ場所であったが故、内戦の激戦地となってしまった地域でもあります。


c) チャフルの虐殺事件

1979年12月6日、ウスパンタンの農民9人が国軍によって拉致された。この内2人はその後逃れることができた。

軍は農民7人をヘリコプターに乗せてチャフルまで連れて行った。チャフルに着くと、全員にカーキ色の服を着せ、壊れたショットガンを渡し、農民らだけでチャフルの市街地まで街道を歩かせた。兵士らは途中で一行を待ち伏せ、チャフルの基地を襲おうとしていたゲリラだと言って全員を殺害した。7人は街道を通る人の目に晒された。軍はチャフル市長に遺体を埋めるように指示し、7人はチャフルの墓地に掘られた2つの穴に埋葬されたが、遺体の1つはガソリンをかけて焼かれていた。

虐殺の20日後、軍は追跡、コントロール、大量の兵士の駐留、家宅捜索、農民の拉致といった方法でチャフルの住民に対する締め付けを強化した。

被害者はガスパル・チャベス・パチェコ、ペドロ・チャベス・カバ、アントニオ・チャベス・カバ、ガスパル・ライネス、サルバドル・ボプ、ルカ・カバ、トマス・カバである。


ウスパンタンはノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュの出身地。イシル地方に隣接する町でもあります。リゴベルタさんの弟さんも79年にウスパンタンで捕らえられ、拷問を受けた後、ゲリラとしてチャフルで処刑されたのだと「私の名はリゴベルタ・メンチュウ」に書かれています。この時期この地方がターゲットとなったのは、CUC(農民統一委員会)という農民グループがこの地で組織されたことと関係があるようで、この事件を期にこの地域への弾圧は激しさを増して言ったのだそうです。

なお、上記の虐殺事件はCEHの報告書によると9月に拉致され12月に処刑されたとなっていますが、CIDHの報告書では12月と書かれているのでそのままにしてあります。